エッセイ · 写真

ヴォルフガング・ティルマンス「Freischwimmer 54」。

Wolfgang Tillmans. Freischwimmer 54.

光は通り過ぎる。紙は覚えている。

ヴォルフガング・ティルマンス「Freischwimmer 54」。暗い地の上を漂う、髪のように細い色の筋。額装された大判プリント

© Wolfgang Tillmans · Städel Museum



暗闇で生まれた写真

遠くから見ると、「Freischwimmer 54」は水のように見える。細い色の糸が暗い地の上で渦を巻き、ある場所では流れのように太くなり、別の場所では煙のようにほどける。漂う髪を見る人もいれば、水草を見る人も、水に落ちたインクの一滴を見る人もいる。誰も正しくない。この絵は特定の何かを写していないからだ。

ヴォルフガング・ティルマンスは2004年、2003年に始めた「Freischwimmer」シリーズの中でこれを制作した。方法の要素はごく少ない。カメラはない。ネガもない。レンズの前に置かれた被写体もない。あるのは暗室と、一枚の感光紙と、手に持って表面の上を動かす小さな光源だけ。

光がとどまったところは、紙に暗く記録される。手が速く動いたところでは、線が細くなる。紙はそのあと、通常のカラープリントと同じように現像される。現れるのは、ある動きの記録であって、ある光景の写しではない。

54番は大きい。237 × 181センチメートル、作家自身がデザインした額に入った C プリントである。フランクフルトのシュテーデル美術館が2008年に、21世紀美術のための同館の支援者グループ「Städelkomitee 21. Jahrhundert」の資金で収蔵した。

撮らずに生まれる写真

ティルマンスは1990年代、友人たち、クラブの夜、窓辺の物、あるいは Concorde Grid の飛行機の56枚の写真で知られるようになった。彼は絶えず撮っていた。だからこそ「Freischwimmer」は注目を集めた。才能ある写真家が、カメラを置くことを選んだのだ。

発想はまったく新しいものではなかった。1920年代、マン・レイ (Man Ray) とモホイ=ナジ・ラースロー (László Moholy Nagy) は印画紙の上に物を置いて露光し、レンズなしで影を生み出した。だがそれらのプリントには物が残っていた。鍵や巻いた針金が、そのシルエットを残した。「Freischwimmer」には物がまったくない。像は、手で動かされた光だけでできている。

シュテーデル美術館は、このシリーズを写真という手段による絵画の継続と説明する。この言葉は心に留めておく価値がある。筆致は、カンヴァスの上の手首の動きを記録する。「Freischwimmer」の光の跡は、暗闇の中の手首の動きを記録する。違いは、画家は筆致が生まれるのを見ていて、ティルマンスは見ていないことだ。彼が結果を見るのは、紙が薬品を通り抜けてからである。

だから一枚一枚が、意図と偶然の出会いである。曲線を望んでいることはわかっている。けれど、それがどれほど細くなるか、色がどう移ろうかは正確にはわからない。紙にも紙の言い分がある。

ひとつの泳ぎの名

ドイツ語で Freischwimmer は、自由に泳ぐ人、プールの縁につかまらずにひとりで泳げる人を意味する。名は、見えるものに合っている。筋は浮かんでいるように見え、どの形にもつながらず、底も岸もない。

この名は、写真そのものについても語る。カメラがなければ、この媒体はもう外の世界にしがみつかない。ある光景が存在したと証明する必要もない。光、紙、薬品という、写真を成り立たせる最も基本的な三つのものにまで還元される。

印象的なのは、この絵が完全に現実のままであることだ。光景を何も創作しない。創作すべき光景がないからだ。紙の上のすべての線は、実際に起きた出来事である。2004年のある日、暗い部屋で、光が表面に触れた瞬間。この写真は世界について報告しない。自らが生まれたことを証明する。

シュテーデル美術館に掛けられ、立った人の背丈より高い「Freischwimmer 54」は、時間を求める。近づくと、糸は分かれ、重なり、ところどころ明るく燃え、ところどころ褪せる。離れると、ひとつの流れにまとまる。どちらの見方も、もう一方に取って代わらない。作品は両方を必要とする。