エッセイ · 嗅覚アート
ファベルジェ「Miniature Easter Egg with Scent Bottle」
Fabergé. Miniature Easter Egg with Scent Bottle.
孵ることのない卵。開くのは、香りを放つときだけ。
The Art Institute of Chicago、Mrs. Burton W. Hales より Antiquarian Society を通じ Miss Grace M. Merchant を記念して寄贈 · The Art Institute of Chicago
手のひらに収まる卵
この物は、シカゴ美術館のヨーロッパ応用美術コレクションに収められている。美術館がつけた名は簡素だ。香水瓶入りミニチュア・イースターエッグ。作り手はサンクトペテルブルクのファベルジェ工房。年代は1899年以前とされる。
高さ5.1 cm、長さ8.3 cm、奥行き5.6 cm。手のひらに収まり、それが石であることを思い出させる程度には重い。
素材は四つ。モスアゲート、金、エナメル、カボションカットのルビー。カボションとは、石をファセットに刻まず、丸くなめらかに磨くこと。きらめかない。水の一滴のように、やわらかく光る。
卵は、美術館の Antiquarian Society を通じ、Mrs. Burton W. Hales から Miss Grace M. Merchant を記念して寄贈された。贈られるために作られた物が、もう一度贈られた。
ファベルジェ商会は1842年にサンクトペテルブルクで始まり、1917年まで営まれた。その名は、1885年から1917年まで皇帝アレクサンドル3世とニコライ2世が妻や母への毎年の贈り物として注文したインペリアル・イースターエッグと結びついている。
だがファベルジェが作ったのは、インペリアル・エッグだけではなかった。箱、額、机上の小物、宝飾品、香水瓶。仕事は、エナメル、石彫、金属それぞれに特化した独立の工房長たちのネットワークに分けられ、全員がひとつの名のもとで働いた。1917年以前、商会は原型師から石留め職人、エナメル職人まで、約500人を抱えていた。
美術館の帰属表記にある「工房」という語には意味がある。この卵には、ひとりの職人の名がない。あるのはひとつの仕組みの名である。石と金とエナメルが多くの手を経て、ひとつの物になる仕組み。
卵、石、香り
ロシアで復活祭に卵を贈るのは古い習わしである。卵は、命がふたたび始まることを表す。人々は彩色した卵、木の卵、磁器の卵を贈り、裕福な人々のあいだでは宝石や貴金属の卵を贈った。小さな卵は、しまっておくことも、身につけることも、飾ることもできた。本物の卵のように割れることはない。
ファベルジェはこの卵に用途を与えた。香りを入れること。象徴であるだけでなく、道具でもある。受け取った人が開いて、嗅ぐ。新しい命の象徴が、生きているもので満たされる。ゆっくりと去っていく香りで。
モスアゲートは、目を留める価値のある選択である。内部に鉱物の跡が枝分かれする半透明の石で、水中の苔や小さな植物のように見える。すでに植物の像を宿している。卵の形に削られると、石は鍵のかかった庭になる。金、エナメル、ルビーは石に寄り添う。石より小さく、句読点のように。
この小さな物がなぜ大切か
ファベルジェのインペリアル・エッグは、しばしば宝飾芸術の頂点と語られる。大きく、精緻で、内部に仕掛けを持つ。シカゴの香りの卵は、はるかに控えめだ。小さいからこそ、別のことを示す。19世紀末ロシアの最も贅沢な世界にも香りの居場所があり、その居場所は手のひらに収まった。
また、香りが留めておく価値のあるものと考えられていたことも示す。ふつうのガラスではなく、石と金の中に。宝飾品として扱われた香り。
同じ頃、海の向こうで作られたもうひとつの香水瓶は、銀でできていて、シダの彫金が施されていた。ティファニーの Fern and Daisy の瓶。二つの物、二つの都市、ひとつの発想。香りを植物の像で包むこと。ニューヨークでは銀の葉。サンクトペテルブルクでは、すでに石の中にある苔。
この卵にかつて何が入っていたのか、いまは誰も知らない。残っているのは殻だけ。孵ることのなかった卵が、去った香りの場所を守っている。