エッセイ · 現代アート
アントニー・ゴームリー「Bed」
Antony Gormley. Bed.
身体は、自らが取り去ったものによって現れることがある。
Tate · Tate
パンでできたベッド
「Bed」は、アントニー・ゴームリー(Antony Gormley)が1980年から1981年にかけて制作した作品。所蔵するテートは、素材を一行で記す。アルミニウムパネルにパンとパラフィン蝋。
題名のとおり、作品はベッドを思わせる。けれどマットレスや毛布の代わりに、パンの薄切りが層をなして積まれている。ごく普通のパン。人が朝食に買うようなもの。
塊の中央に、二つのくぼみがある。それぞれが横たわる人の輪郭だ。彫像も、積み上げた人物像もない。あるのは不在だけ。
食べることで作る
ゴームリーがその二つの形をどう作ったか。それが「Bed」を忘れがたくしている。ナイフで切ったのでも、彫ったのでもない。彼は自ら薄切りを少しずつ食べ進め、くぼみが自分の身体の形になるまで続けた。
少し考えてみる。ベッドから失われたパンは、すべて作家の身体へと入った。ベッドの上の形と生きた男は、同じものでできている。一方が養われるにつれて、もう一方が現れる。
パンがカビたり腐ったりしないよう、薄切りはパラフィン蝋に浸された。蝋はパンの形と色を保ち、ふつうは数日しかもたないものを、何十年も美術館に横たわらせる。パンは食べ物であることをやめる。彫刻の素材になる。
ゴームリーは、安価で見慣れた、誰もが触れるものを選んだ。ブロンズでも大理石でもない。パンは人が毎日、身体を養うために使うもの。それで身体を形づくることで、円が閉じる。
くぼみとしての身体
のちにゴームリーは、自分の身体から型を取った人物像で、英国でもっともよく知られる彫刻家のひとりになる。けれど「Bed」では、身体はまだ固体ではない。空洞だ。
この発想は、ひとつの素朴な問いを投げかける。私たちは人を、その人が満たす空間で見分けるのか。それとも、残していく空間で見分けるのか。誰かが立ち上がったあとも温かい椅子。枕のへこみ。足の形を保った一足の靴。どれも人ではない。それでも、誰かがそこにいたことを私たちはすぐに知る。
ネガティブスペース、つまり物のまわりの見過ごされた容積を扱う発想は、その後の英国美術に受け継がれた。のちにレイチェル・ホワイトリードが家一軒の内部を鋳造したように。「Bed」はその関心のごく個人的な版だ。その空洞は口によって、食べることによって作られたのだから。
二つの形が横たわっている。作品は、それが誰なのかを語らない。見る者は考える。一人が二度横になったのか。それとも二人がひとつのベッドを分け合っているのか。
器としてのベッド
ベッドは、私たちが気づかぬまま最も長い時間を過ごす場所だ。眠り、病み、愛し、眠れずに横たわる。毎晩私たちの形を受けとめ、毎朝それを手放す。
パンもまた朝のものだ。夜に焼かれ、早くに買われ、家を出る前に食べられる。パンをベッドの形にすることで、一日の両端がつながる。目覚める場所と、最初に口にするもの。ゴームリーはそのつながりを説明しない。素材に語らせる。
「Bed」はその形を、蝋とパンのなかに永久にとどめる。誰も横たわることのできないベッド。それでもいつも、誰かが今しがた去ったばかりのように見える。その前に立つ人は、思ったより長く黙っていることが多い。
おそらく作品が、誰もが知っていながらめったに口にしないことに触れるからだ。私たちの身体は、食べたものでできている。そして私たちが去るとき、残るのはくぼみ。ちょうど私たちの大きさの。