エッセイ · 嗅覚アート
キャロリー・シュニーマン(Carolee Schneemann)。「Meat Joy」。
Carolee Schneemann. Meat Joy.
肉は素材。匂いは証拠。
1964年の三つの公演
「Meat Joy」は1964年5月29日、パリのアメリカン・センターで開かれたフェスティバル・ド・ラ・リーブル・エクスプレッションで初演された。出演者は九人。中心の女性はシュニーマン、中心の男性はダニエル・ポムルール(Daniel Pommereulle)だった。
十日後の6月8日、作品はロンドンに移り、デニソン・ホールで八人によって上演された。同じ年の11月16日から18日にはニューヨークに渡り、ジャドソン・メモリアル教会でのジャドソン・ダンス・シアターのプログラムの一つとして上演された。出演者はふたたび九人、シュニーマンは作曲家ジェームズ・テニー(James Tenney)と並んで中心にいた。
三つの都市、三つの出演陣、一揃いの素材。生の魚。生の鶏。ソーセージ。濡れた絵具。透明なビニール。ロープ。筆。紙くず。
床の上で起きたこと
出演者はゆっくりと始める。服を脱ぎ、横たわり、絡み合う。やがて紙が投げられる。やがて絵具が肌に塗られる。やがて魚と鶏とソーセージが、転がる体のあいだに落とされる。
筋書きはない。あるのはリズムだ。やさしく、荒々しく、正確で、奔放。シュニーマンはこの作品を、過剰で耽溺的なエロティックな儀式、素材としての肉の祝祭と表現した。見る者は官能的とも、滑稽とも、歓喜とも、嫌悪とも感じうる。彼女はそのすべての反応を同時に存在させた。
シュニーマンは画家として修業した。こうした作品を彼女はキネティック・シアターと呼んだ。彼女にとって床は大きなカンヴァスであり、人の体は筆であり、色であり、画面でもあった。
ここで匂いは脇の細部ではない。生の魚はすぐに潮臭くなる。生の鶏は皮と脂の匂いがする。濡れた絵具は溶剤の匂いがする。そのすべてが、説明もなく、まっすぐ観客に届く。
素材としての肉
1960年代初め、アメリカの絵画はまだカンヴァスの前に立つ男たちを中心に回っていた。シュニーマンは絵の中に踏み込んだ。自分の体とほかの人々の体を素材として使い、市場で買った肉の隣に置いた。
人の肉を動物の肉の隣に置くのは、居心地の悪い身ぶりである。それは、肌もまた肉であることを思い出させる。温かく、匂い、朽ちることに結びついている。美しさと潮の匂いは切り離せない。観客はただ見るだけではいられない。嗅ぎ、紙のこすれる音を聞き、絵具のこびりついた肌を見なければならない。
だから「Meat Joy」は、パフォーマンス・アートとフェミニズム・アートの画期としてしばしば挙げられる。匂いの側から読めば、生きた肉と死んだ肉と人の体が、ひらかれた形で一つの部屋を分け合うことを許した、早い時期の作品の一つでもある。
フィルムと、失われたもの
1964年の公演は16mmフィルムで撮影された。2008年、シュニーマンはもとの映像から約十分半のカラー・サウンドの編集フィルムをつくった。いま多くの人が「Meat Joy」を知るのは、この形である。
フィルムは動きも、絵具も、笑い声もとどめる。匂いはとどめられない。画面の上で体は魚と鶏のあいだを転がり、鼻には何も届かない。作品は、あの夜よりも清潔で、見やすいものになる。
注意を向けるべきは、その隔たりである。「Meat Joy」は、パフォーマンスの一部がその部屋に、その晩に、十分近くに立っていた人々のためにしか存在しないことを思い出させる。ジャニーン・アントーニの、舐められたチョコレートと洗われた石鹸の胸像と同じ系譜にあって、体と素材が、目だけでは捉えきれないやり方でともに働くことを示している。