エッセイ · 嗅覚アート

エドモン・ルドニツカ(Edmond Roudnitska)。芸術としての香水。

Edmond Roudnitska. Perfume as an art.

観察の場としての庭。

エドモン・ルドニツカ:Diorissimoが生まれたカブリスの庭のスズラン


カブリス:観察の場としての庭

カブリスはアルプ・マリティーム県の小さな丘の村で、グラース周辺の花の産地を見下ろしている。1948年ごろ、エドモン・ルドニツカはそこへ移った。仕事部屋を設け、庭をつくった。

その庭は眺めるためのものではなかった。試すための場所だった。彼はスズランを植えた。春の、小さな白い鐘のかたちの花である。匂いをつくる人にとって、スズランにはひとつの特異さがある。精油を生まないのだ。その匂いを蒸留や抽出で取り出して使う方法はない。瓶のなかのスズランはすべて、ほかの素材から、記憶とつくり手の感覚によって組み立て直されたものだ。

ルドニツカは記憶に頼らないことを選んだ。本物がそばにあるように、花を育てた。処方を試すたびに、咲いているスズランにかざして比べた。けれどスズランが咲くのは、毎年ほんの短いあいだだ。だから彼の仕事は植物の暦に結びついていた。比べられるのは年に数週間、あとは次の春まで待つ。

この方法は何かを語っている。ルドニツカにとって、匂いをつくる人はまず観察者だった。処方は本物に応えなければならなかった。

DiorissimoとEau Sauvage:抑制の二つの練習

そのスズランの季節から生まれたのが、1956年にChristian Diorのメゾンから発売されたDiorissimoである。当時、戦後の香水は重くなりがちで、ムスク、アンバー、パウダーに満ちていた。ルドニツカはもっと軽いものを望んだ。息子のミシェル・ルドニツカ(Michel Roudnitska)が雑誌『Nez』に語ったところでは、Diorissimoの処方は同時代のものと比べて際立って短かった。

ミシェルはまた、ルドニツカとクリスチャン・ディオール(Christian Dior)のあいだの互いへの敬意を語っている。ディオールは南仏へ来るとカブリスを訪ねた。Diorissimoは、何度も手直しを重ねることなく、比較的すぐに受け入れられた。

十年後の1966年、ルドニツカはDiorのためにEau Sauvageをつくった。コロンであり、18世紀にさかのぼる軽い柑橘のかたちである。彼はそれを当時新しかった素材で書き直した。Hedioneである。Firmenichがジャスミンの研究を通して見いだした分子で、明るさと広がりの感覚を与える。Eau Sauvageは、Hedioneをかなりの量で用いた最初の市販香水として、ふつう挙げられる。

二つの異なる匂い。ひとつは花、ひとつは柑橘。どちらも同じ道を行く。取り去り、物に息をさせる。

美学について書く調香師

ルドニツカは匂いをつくるだけではなかった。書いた。1977年、出版社PUFが美学の本『L'Esthétique en question』を刊行した。1980年には、同じ出版社の小さな叢書「Que sais je?」に『Le Parfum』の巻を書いた。

彼の主張は率直だった。匂いは作品でありうるし、作品として判断されるべきだ。つくり手にはかたちがあり、選択があり、意図がある。嗅ぐ人は、見る人が絵の見方を学ぶように、それらを知覚することを学べる。

当時、これはよくある見方ではなかった。香水はメゾンの仕事とみなされ、商業と流行に結びついていた。美学について書く調香師は、自分の技を別の対話のなかに置いていた。オスモテークでのある講演で、彼は審美家であり哲学者でもある調香師として紹介された。

作品としての匂い:ルドニツカが残したもの

数十年後も、彼の問いは残っている。美術館は匂いを展示しはじめた。調香師の名がファッションメゾンの隣に現れはじめた。アーティストは瓶もラベルもなしに、匂いを素材として扱う。

そのすべてが彼から来たわけではない。けれど彼は、匂いはこれほど近くで見つめられるに値すると、書かれたかたちで最初に言った人々のひとりだった。

Penta がいちばん覚えているのは、やはり庭である。Penta は、スズランのあいだに立つひとりの男を思い描く。試香紙を持ち、鼻へ上げ、身をかがめて花を嗅ぎ、また紙を上げる。年に数週間。仕事は、物を理解するまで見つめつづけようとすることから始まる。