エッセイ · 現代アート
マーサ・ロスラー(Martha Rosler)。「Semiotics of the Kitchen」。
Martha Rosler. Semiotics of the Kitchen.
道具はひとつずつ文字になる。身ぶりは、文字が言わないことを言う。
Tate · Tate
料理のない料理講座
1975年、マーサ・ロスラーはカメラの前に小さな台所をしつらえた。テーブル、いくつかの道具、エプロン。モノクロ、音声つき、長さはおよそ六分。すべてが午後の料理番組のように見える。
そして彼女は始める。エプロンを着け、まっすぐレンズを見つめ、最初の道具を手に取り、その名前を言う。次の道具。また次の道具。順番はアルファベット順、Aから始まる。
レシピはない。材料もない。料理はひとつもできあがらない。
代わりにあるのは身ぶりだ。ロスラーは道具を本来の使い方では使わない。振りまわし、突き、叩き、放る。お玉は何もない空気をすくい、その空っぽを画面の外へ投げ捨てる。ナイフは目の前の空間を切り裂く。どの動きも短く、きっぱりとしていて、進むにつれて激しくなる。
台所のアルファベット
題名が方法を語っている。記号論とは、記号がどのように意味を生むかを研究する学問だ。言葉も、像も、物も、記号になりうる。台所では、そうした記号は長いあいだ固定されていた。ボウルは混ぜるため、おろし金はおろすため、ナイフは切るため。そしてそれを使う人は、当時のなじみの図式では、女性だった。
ロスラーはその体系をまるごと受け取り、わずかにねじ曲げる。名前は正しい。順番も正しい。身ぶりだけが間違っている。その間違いが、ずっと台所に静かに横たわっていたものを浮かび上がらせる。望むかどうかを誰にも問われないまま、女性に手渡された役割。
ロスラー自身の言葉によれば、観る人が目にしているのは、裏返しのジュリア・チャイルドだ。当時アメリカでもっとも有名なテレビの料理家である。道具の家庭的な意味は、別の語彙に置き換えられる。苛立ちと怒りの語彙に。
彼女のある言葉はよく引かれる。女性が話すとき、彼女は自らの抑圧に名前をつける。映像のなかで、名指すことが唯一の行為だ。ロスラーは説明もしないし、不平も言わない。平らな声で、平らでない手つきで、アルファベットを読み上げる。
安くて身近な道具としてのビデオ
1970年代半ば、ポータブル・ビデオはアーティストの手に届くようになったばかりだった。フィルムより安く、すぐに見ることができ、現像所も要らなかった。多くの女性アーティストがそれを使い、自らの身体と日常を素材にした。まだ彼女たちに扉を開いていなかった制度の外で。
「Semiotics of the Kitchen」は、テレビそのものの文法を借りてテレビに異を唱える。固定カメラ、中央の司会者、ひとつずつ紹介される道具。観る人はすぐにその形式に気づき、気づくからこそ、それがどこで壊れるのかを正確に見る。
画面は粗く、光は平板で、音は小さな部屋に反響する。磨かれたものは何もない。粗さは作品の一部だ。模倣する料理番組のつややかさから、それによって距離をとっている。
その六分が残る理由
半世紀後の今も、「Semiotics of the Kitchen」は美術館で上映され、ロンドンのテートのコレクションに収められている。1970年代のもっとも明快なフェミニスト・ビデオのひとつとして、また小さな身ぶりが大きな問いを運びうることの証として、しばしば挙げられる。
作品を生かしつづけているのは怒りではない。映像のなかの怒りは、とても抑えられている。残るのは構造だ。誰もが知るアルファベット、誰もが知る台所、そして教えられたとおりに使うことを拒むひとりの人。のちに他のアーティストも、権力の場としての台所へ戻ってくる。キャリー・メイ・ウィームスの台所のテーブルのように。
今の観る人はジュリア・チャイルドを覚えていないかもしれない。それでも、台所が何であるか、そこに誰がたいてい立っているか、その時間が数えられているかどうかは知っている。ロスラーの問いは古びていない。台所は、私たちが思いたいほどには変わっていないから。