エッセイ · 嗅覚アート

ピエール・フランソワ・パスカル・ゲラン。皇后のための水。

Pierre-François-Pascal Guerlain. A water for an empress.

香りは飛び去る。名前は残る。

Guerlain「Eau de Cologne Impériale」:19世紀のコロンの広告


パリ、1828年。ひとつの香水の家が生まれる

Guerlain は1828年ごろ、ピエール=フランソワ=パスカル・ゲラン(Pierre-François-Pascal Guerlain)によってパリで創業された。2018年、この家と写真はともに190年を祝った。ほぼ同じ年齢のふたつの発明。数年の違いしかない。

業界にとって意味のある時期だった。19世紀は、パリが流行と洗練の首都になった時代である。調香師はもはや薬局の調合人ではなかった。店を構え、常連客を持ち、宮廷とつながる商人になった。

ゲランより前にも、この道を行った人たちがいた。ケルンの薬局の後継者ジャン・マリー・ファリナ(Jean Marie Farina)はパリに移り、ナポレオンをはじめいくつもの宮廷の御用達となった。Houbigant は1829年、オルレアン家のアデライード王女の調香師に任じられた。自分の名を宮廷に結びつけることは、客を得る方法であり、名を得る方法でもあった。

1853年、ピエール=フランソワ=パスカル・ゲランは、皇后ウジェニーのためにつくった水 Eau de Cologne Impériale で皇室御用達の認可を受けた。同じ年、ウジェニーは皇帝ナポレオン三世の妻になったばかりだった。

オーデコロンは、独自の歴史をもつ香りの水の一系統で、18世紀のケルンに始まる。軽く、みずみずしく、たいていは柑橘を軸にして、一日に何度も惜しみなく使われる。特別な日に少量をつける濃い香水ではない。油よりも水に近い。

濃く希少なものではなく、コロンを皇后のためにつくると選んだこと。それは注目に値する選択だ。儀式のためではなく、ひとりの人の日々の暮らしのための香り。朝に、洗うことに、ハンカチに属している。

皇室の認可状は、その反対だ。封をされ、署名され、保管される、形式ばった物。ふたつは一緒に旅をする。ひとつは毎日飛び去り、ひとつは残る。

帝国より長く生きた名前

第二帝政は1870年に崩れた。皇帝は退位させられ、皇后は亡命した。Impériale と記されたものはすべて、突然、消えた体制の痕跡になった。

だが Cologne Impériale は消えなかった。今も Guerlain の香りのひとつとして残り、香水と政治について書いた雑誌 Nez は、古い権力を思わせる名前の瓶として、Kingdom、Royal Oud、Santal Royal といった名と並べてこれを挙げている。

ここには小さな逆説がある。香りは最も脆いものだ。数時間で蒸発する。帝国は、人が築こうとする最も長く続くものだ。それなのに、毎日つくり直される香りは、帝国が自らを保ったよりも長く、帝国の名を保ってきた。

香りは自らを保存しない。繰り返しによって保存される。誰かがもう一度つくり、誰かがもう一度まとい、ひとつの家がもう一度売る。つくり直されるたびに、その名がもう一度声に出して読まれる。

コロジオンの写真

2018年、創業190周年に際して、Guerlain は8人の作家を招き、その歴史における重要な香水の像を、それぞれの時代の写真技法でつくらせた。Eau de Cologne Impériale は、19世紀半ばの技法であるコロジオンのプリントで表された。展示はシャンゼリゼ通り68番地の店舗で行われた。

8人のひとりが、写真家ジョアン・フォンクベルタ(Joan Fontcuberta)だった。彼は、この家の歴史を調べるうちに、忘れられたひとつの香水を通じて、Guerlain の創業者と、写真の創始者のひとりダゲールとのつながりを見つけたと語った。それは彼の主張であり、フォンクベルタは記録と虚構の境界で遊ぶことで知られる作家だ。Penta はこの話を、あるべき場所に置いておく。ひとつの物語として。

とはいえ、技法の選択ははっきりしている。1853年の香りを、1853年の目で見る。コロジオンのプリントは、皇室の認可状や Impériale という名前そのものと同じく、過ぎ去ったものを抱きとめる静かな物である。

この系統の水をさらに知りたい読者は、Farina のオーデコロンの瓶から始めるとよい。二世紀近くを経ても、紙のラベルがそのまま残っている。